教えながら、教えて
- 教えながら、教えて
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「訂正しながら教えるのではなく、教えながら、教えましょう」と
モンテッソーリは言っていますが、
この言葉だけでは何を言いたいのか理解するのは難しいですよね。
この言葉には2つのメッセージがふくまれており、
一つは、大人が無神経に訂正すると、
子どもは心を閉ざすという事を言っています。
もう一つは、子どもには忍耐強く教えて
いかなければならないという事をいっています。
どんなにゆっくり丁寧に教えたとしても、
子どもは理解したかもしれませんし、
理解していないのかもしれません。
だから、子どもが間違えたとしても訂正してはいけないのです。
無理やり正しいやり方を押し付けるのではなく、
その場はそのままにしておいて、
後日、適当な時を見つけて、再び正しいやり方を
こどもに見せる方法をとりましょう。
大人は、大人に教える時は口で説明すれば、理解できます。
大人は同じように子どもにも、まずは口で説明しますが、
子どもはよく理解することができないし、
また、まだ随意筋肉を目的に向かって思い通りに
動かすことができないと考えてあげないといけません。
この事を知らないほとんどの大人は「訂正しながら、教える」
タイプなので大人はイライラを募らせ、
子どもは心を閉ざすという悪循環が発生してしまいます。
モンテッソーリが
「大人と子どもは深く愛し合っているにもかかわらず、いつも戦闘状態にある」
と言ったのは、このような理由によるものと考えられます。
1歳前後の子どもは、二本足で立ち上がろうとし始めます。
その行為は、どんなに転んでも立上がり、何度も挑戦を続けますが、
これは誰が教えたわけでもない、自然の力によるものです。
自然の力は、転んだことに怒ったり、訂正したりしませんし、
変わりに歩いてくれるなんて事はしてくれません。
どちらかといえば、失敗して転んでも、頑張れ!
もう一度!と励まし、立ち直る力を与えてくれるものです。
二本足で立ち、歩くことが可能になる事によって、
二本の手が自由になり、手に世界の検索というものが始まるのです。
手が使えることによって、子どもは大人が作り上げた文化の
世界に入ることが可能になります。
そして、複雑な文化の世界で生きていくためには、
大人に「手の使い方」を学ばなくてはなりませんし、
大人は教えるという役割が生まれます。
大人には、子どもに「どうすればできるか」という事を
教えていかなければなりません。
当然ながら、それは義務になります。
基本的に、子どもは「動き方」というものを学びたがっています。
日常生活での洋服の着脱や食事のしかた、
物の片付けかた、掃除や洗濯の仕方、
挨拶やマナーなどのことを、本当は知りたい、
学びたいと思っているのです。
ところが現代社会では、「教えないで、教えなさい」という
摩訶不思議な教育理論と、
何もかも自動的にできる生活環境とが相俟って、
教えなくても何とかなると考えている人が増えています。
また、大人自身が、子どもに日常生活の中で
「何を、どのように教えるのか」
がわからなくなってきた時代ともいわれています。
わからないから、子どもが学びたがっていることを、
子どもに代わってやってしまい、
英語のDVD教材の前に長時間座らせて見せたり、
車に乗せてお稽古事に行くなどの事に力を注いだりするのです。
本当は、乳幼児期には、まず日常生活の行動を
自分でできるように教えることが最も大切なことになります。
それを教えるときは、失敗しながら上手になっていく過程と
忍耐と愛をもって見守り、励ますことに努めましょう。
怒りたくなるたびに、
「教えながら、教えなさい」という勧めを、
自分に言い聞かせることも、
大人の義務、責任になるのではないでしょうか?
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